2018年7月1日日曜日

Code from Japanese emperor Tokugawa? Princess Masako.

 2017年の秋、私は結婚を控えて身の回りを整理していた。というのは遠距離恋愛になった恋人に「会いに来て欲しい」と言われてすっかり舞い上がった為である。何日もかけて部屋の中を見渡して写真の整理をしたり、手紙を読み返していた。
 その様な中で私は一枚の写真に目を奪われた。それは小学生の頃の正月の書き初めと一緒に写った自分の写真だった。ツインテールで厚い前髪で微笑む姿はまるでマンガやアニメで見た中国人の女の子の様だったのだ。一言で言うと自分がものすごい「つり目」であることに気付いたのだ。 
 私はそれまで、色白で背が高く手足も長い事から、「日本人離れしている」とずっと言われてきた。更に鼻筋も通っており「日本人には珍しい」と、ある男に言われた薄い唇で顔も前後に長く、それまでは「サングラスをかけると白人に見えるのではないか?」と考えていてその写真には大変驚かせられたのだ。
 一通り整理が終わると、私は生まれた家を離れるに辺り、どうしても自分のルーツが気になった。と言うのは、私はこれも小学生の頃、私が描いたお世辞にも上手いとは言えない写生が中国人の方に気に入られたらしく、その写生を中国人の方が持って行ったという出来事があり、最近になって知人に「それは射精、血統が欲しいと言うことじゃないか」と言われたためだ。

「中国人の人が欲しいというのは一体どんな血統なのだろう?」

 と、私は自分の祖先に思いをはせ、仏間の祖父母らの写真を眺めていた。私の祖先は曾祖父の頃に分家しており、写真は4枚だけだったのだが、私は祖母に教えられた事を思い起こしていた。
 「本家は明治時代に製糸工場を営んでいて、曾祖母はそこの従業員と一緒になることを望んだのだが「身分が違う」ということで結婚は認められず、身分が釣り合う曾祖父が婿に入った」という何となく複雑なエピソードを思い出した。それとおばは当時、「有力者の娘しかなれなかった役場の職員に市長の鶴の一声で彼女らを押し退けて就くことができた」ということも。
 今では本家共々落ちぶれてしまったのだが、本家の祖先は村長をしたり、地元の有力者と共に老舗企業を起こしたりしていたということや、本家の仏間には我が家と違いズラリと一面に祖先の写真、もちろん古いのは絵だと思うのだが、が飾られており、代々続くそれなりの家柄だということと、遠く静岡県三島市と縁があるということ、私が知っている事はこれくらいだった。父親によると「本家の人間でさえも祖先の事はよく解っていない」ということなので、「私達のルーツはよく解らない」というのが本当のところである。
 話は戻るのだが、小学生の頃に拙い写生が中国に渡り、学生の頃に共産党の人や中国と縁がある人達に気に入られていたことに思い当たっていた私は、
 
「もしかしたら、私達は日本人ではなく中国人なのではないか?」

という仮定を立てた。そしてインターネットで調べてみると、「徐福伝説」というものにたどり着いた。ざっくり言うと「紀元前3世紀、当時の中国の王朝である秦の始皇帝が不死の薬を求めて、徐福と皇帝の子供達3000人が海を渡ったのだが、そのまま戻らず日本に移り住んだ」というものである。
 秦の始皇帝は、最初に中国を統一した皇帝で、万里の長城を築いたりした偉大な人物である。日本はこの頃、弥生時代で「稲作が始まり身分の差が生まれた頃」とされている。そして私は、隋の皇帝煬帝を怒らせた聖徳太子のことを思い出した。「日出処の天使」、「日没する処の天使」という表現を用いて対等な関係を求めた為に怒りを買ったというものである。
 私は何度も公務員試験を受験しており、いつの間にかこの程度の知識はインプットされていたのだが、これは「日本の天皇家は徐福と共に中国からやって来た」と考えると辻褄が合うのだ。残念ながら、恐らく聖徳太子の頃にこの「天皇家の血筋は疫病で途絶えた」という説があるのだが。
 調べてみると、私達日本人はチベットの少数民族の「チャン族」がルーツとされており、遺伝子も一致するのだそうだ。そのチャン族は始皇帝の民族で、始皇帝らは純粋なチャン族と後に漢王朝を起こした漢民族との混血であると思われる。と言うのは、日本人には「縄文顔」と「弥生顔」というものがあり、白人に近くアイヌ人に代表される「縄文顔」と、徐福が日本にやって来た弥生時代に入って来た「弥生顔」という現在の中国人に近い民族が混血したものが日本人であり、全ての日本人には縄文人の血が流れているというためだ。そして私達大和民族は大まかにいうと、この縄文人と漢民族等の中国人が混血した人達と縄文人と朝鮮人が混血した人達なのだそうだ。私の「長身」「つり目」「薄い唇」は漢民族の特徴と合致するそうなのだ。当時の「漢民族」と今の「漢民族」は意味合いが違い、当時の「漢民族」は「多くの戦乱の中で途絶えてしまった」という説がある。と言うのは、中国では王朝が変わるなどすると、脅威になりうる人達は一族毎殺されてしまうということが一般的だったためだそうだ。例えるならば徳川家康が脅威になりうる豊臣家を滅ぼしたことと同じようなことが中国でも起きていたのだ。(豊臣家は滅んでないそうです…苦情を頂きました…)
 私は当時、「徳川家康は山梨に隠居した」と勘違いしていた為、山梨県にゆかりがある私は益々思いを募らせていた。(調べてみると、家康が隠居したのは隣の静岡県で山梨県は家康が重要視した直轄地だった様で、当たらずとも遠からずと言ったところかもしれない。)
 そして、茶の間に祖父の兄弟と父親の兄弟が1980年代前半に山梨の親戚を訪れた際の写真があったことを思い出して、そのアルバムを引っ張り出した。私は直ぐに息をのんだ。そのアルバムは私と同じ誕生日の有名人の写真が表紙にあるアルバムだったのだ。私は自分に「何かを伝えようとしている」と感じた。
 と言うのは、私はある元ciaの工作員に「誕生日で人を表現する」ということを教わったためである。これらは時として「犯行声明」などに利用される。例えば、横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されたのは1977年11月15日だが、この「11月15日」というのは1955年に自由民主党が誕生した日である。これは左右社会党が統一して政権獲得を掲げたことが理由らしいが、この社会党というものは北朝鮮とのパイプがある政党だったらしい。「あんな日(11月15日)なんかなければ良いのに」という被害者の方などの思いが犯人の犯行声明なのだ。つまり「自民党なんかいらない=社会党=北朝鮮」というのが犯行声明なのだ。「この娘を拉致したのは我々北朝鮮だ」ということである。
 話は戻るのだが、山梨県で撮られた写真を眺めていた私はその中に一枚、不自然な写真を見つけた。それは、集合写真であるにも関わらず、どこか違う方向を見ていたり、人数が足りなかったりする写真である。何を見ていたかというと、ある犬種の犬を見ていた。それと「まさこ」という名前の従姉が中央で微笑んでおり、山梨県の親戚がトイプードルを抱いてこちらを見ていたのだ。
 そして、例によってその写真が撮られた日を調べた私は再び言葉を失った。その日付は「9月11日」、紀子さまの誕生日だったのだ。「紀子さま、プリンセスは雅子様ですよ」という徳川家からのメッセージではないかと私は感じた。というのは、今の天皇家は陛下や小沢一郎氏が言うには「韓国にルーツがある」ということで、しかも紀子さまのお顔は私の知り合いの韓国人の方とそっくりなのだ。調べてみると紀子さまのルーツは韓国にあるらしいということや、そもそも「きこ」という名前は朝鮮人の名前だという情報を見つけた。更にある有名な韓国にルーツのある人物は「次期天皇は皇太子様ではなく秋篠宮様に」ということを公言していたことも思い出した。
 そしてもうひとつの山梨県の親戚のメッセージは「お前は小柄で褐色の男と一緒になれ」というものと感じた。調べてみると、小柄で褐色という民族は漢民族に代表される中国人ではなく「インド人が当てはまる」ということだった。私が「インド人」にたどり着いたのにはひとつ理由があって、学生時代に一人暮らしをしていたアパートの下の階にインド人の留学生が住んでおり、どうも行動を監視されているということがあったためだ。
 なぜ祖父の兄弟が私に暗号じみたメッセージを残したのかと考えると、これも思い当たる節があり、実は私はこの写真が撮られた数年前の秋、交通事故で急死に一生を得ていたのだ。チャイルドシートの上にシートベルトをしていなければ死んでいたらしい。
 そして小学生になり、中国人の様な髪型にした数年後、私の写生は中国に渡った。写生の代わりにその写真を先生にもらった私はその写真を見てみた。すると、不思議な事を見つけた。何故私がその様な絵を描いたのか解らないのだが、その写真には「青い屋根の家」と「赤い屋根の家」と「白いハウス」が一ヶ所に集まっていた。「葵(徳川)とアカ(共産党)と白(白人)は一緒が良い」というメッセージにも受け取れる事に気付いたのだ。
 そして数年前、長年の不遇にすっかり疲れはてていた頃、かの元cia工作員エドワード・スノーデンが私の誕生日に香港に渡ったことを知った。「外国に逃げろ!」と言われているように感じ、又「誕生日で物事を表すこと」も教わった。
 だいぶ話が飛ぶのだが、私は2017年の秋に恋人に呼ばれて彼の住むまちに行くことになったのだが、行く前から何となく嫌な予感がしていた。その予感は的中し、そのまちの人達はどうも私を拒んでいる様に感じられた。
 中でも、まちの中を歩いていると、今時、私の友人がかつて好んでいた「一眼レフカメラ」を持った人達がまちの中にうじゃうじゃいた。そして信じられないと思うのだが、彼らはある建物の前で私に付きまとい、私は写真を撮られるなどした。
 そして、その夜、私はビジネスホテルで彼を待って居たのだが彼は私に会いに来ることはなかった。
 私はすっかり疲れてしまい眠れなくなり、翌日、私がかつてよくしていた様にそのまちの警察に相談しに行った。すると、なんと警察は警察車両で私を精神病院に連れて行き、私を精神病院に閉じ込めたのだ。その病院も、私の話をほとんど聞かず、どんどん入院期間を伸ばし、数ヶ月間私は病棟から一切外に出ることは許されなかった。
 そして数ヶ月ぶりに自宅に戻り、しばらくすると、その都道府県の警察官の訃報の記事が新聞の片隅に載った。
 実は私が警察に連行される様に精神病院に閉じ込められたのは二回目で、一回目は恋人と離れ離れになったショックと、退院後の酷い薬の副作用(手足が思うように動かない、横にもなれなれない、座ることも困難で、夜も眠れない等の症状)で、すっかり体の自由が奪われた私は深刻な鬱状態になって自殺を図り、失敗して心配した父親に直ぐに精神病院に連れていかれて鬱の治療の為に入院する事になった。すっかり良くなって退院した私は、かの名探偵、シャーロック・ホームズの様に入院中の事件等を調べていた。すると、私が自殺を図った直後、ある外国人が不審な死を遂げていた事を知ることになった。
 実は私が自殺を図ったのも二回目で、最近気付いたのだが、驚いた事に一回目は今回不審な死を遂げた外国人と関係のある人物の誕生日であった。そして私はホームズの言葉「人のために墓穴を掘るものはその穴に落ちるのだ」という言葉を思い出していた。

To be continued

 
 


 
 
 

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